クラシックの作曲家たち

Wolfgang Amadeus Mozart

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

1756 - 1791

ファーザーコンプレックスを乗り越え、〝フリーランサー〟を夢見た天才の悲劇。 かつて一世を風靡した神童を待ち受けていた、 ひとときの栄光と切なすぎる結末

 日本でいえば江戸時代後期の1756年、現オーストリアのザルツブルクで宮廷音楽家の息子として生まれたモーツァルトは、3歳で鍵盤楽器を弾き、4歳で曲を弾きこなした上、いつの間にかヴァイオリンも弾けるようになっていたという。5歳で作曲も開始し、初めて演奏旅行に出たのは6歳。その年の10月、ウイーンのシェーンブルン宮殿で御前演奏をしたときは、王侯貴族から喝采を浴び、当時皇女だったマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという、ませたエピソードまで残している。最初の交響曲は9歳頃、オペラとミサ曲は12歳のときに作曲。その神童ぶりは、作曲家の中でも群を抜いた存在なのだ。
 モーツァルトが生きたのは、音楽の主な舞台が、教会から王侯貴族の館へ、さらに一般市民も入れる劇場へと、少しずつ動き出した時代だった。そんな中で作曲家が安定収入を得ていくには、王侯貴族のお抱えになるのが一番だった。モーツァルトの父親・レオポルトは幼い息子をあちこち連れまわして演奏させたが、各地の音楽にふれさせるという教育的目論見と、将来、息子が良い就職ができるように、少しでも我が子の値を釣り上げ、顔を売っておこうという、親心があったようだ。
 明るく、冗談好きで、無邪気な青少年に育ったモーツァルトは、13歳のとき、父親同様、ザルツブルクの宮廷楽師になった。ただ、実際は無給だったため、自由に旅をして、それまで通りの音楽活動も続けていた。ところが3年後に領主が替わると、ショボい金額で雇われの身になり、自由に旅ができなくなってしまう。当然、稼ぎは減少。そんな雇い主を相当苦々しく思っていたモーツァルトは、21歳のときに自ら辞職願いを出し、より良い仕事を求めて、ザルツブルクから出て行った。
 驚くのは、このとき、母親と一緒だったという事実だ。息子のことが心配だったレオポルトが、自分の代わりに母親について行かせたのだ。もう21歳だというのに、父親の過保護ぶりがうかがえる。もう一つ驚くのは、ミュンヘン、マンハイム、パリと、1年以上かけて職探しの旅を続けたのに、どこも彼を雇わなかったということだ。モーツァルトの作曲家としての才能がどれほどスゴイか、当時の人々は、まだよくわかっていなかったのだろう。それに、子供の頃から父親に支配され、周りからはちやほやされて育った彼にマネジメント能力があったはずもなく、人々の目には「昔有名だった、危なっかしい若造」と映ってしまったようだ。結局このときは、いったん、ザルツブルクの宮廷楽師に戻っている。
 モーツァルトがファーザーコンプレックスだったことはよく知られているが、逆に言えば、父親以外は怖いもの無しだった。彼は25歳のとき、領主に悪態をついてザルツブルクと決別し、以降は、ウィーンでフリーランスの音楽家として生きていく道を選ぶ。お金はないけれど、才能と若さと夢があったモーツァルトは、父親の反対を押し切って下宿先の娘コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚も果たし、ようやく一人の独立した大人として、人生を歩き始めたのだ。
 ウィーンで暮らし始めたモーツァルトは、裕福な人々にピアノを教えて収入を得ていたが、その頃誕生した曲に、「トルコ行進曲」で有名な「ピアノ・ソナタ第11番」がある。もともとサービス精神旺盛だった彼は、聴衆が聴き心地がよいのはもちろんのこと、自分の生徒たちも練習すれば演奏できる、難易度の高くないピアノの名曲をたくさん残した。
 実際には、当時、音楽家がフリーランスで活動するというのは、博打に近いところがあった。収入の中心は、劇場や貴族の邸宅などを借りて行う商業目的の演奏会だ。自分で企画したり、劇場の支配人などと組んで行うのだが、客が入れば大儲け、入らなければ大損。楽譜の出版やピアノ教師としての収入や、依頼を受けての作曲による臨時収入もあったものの、いつどうなるかわからない状態だった。
 結局モーツァルトは、30歳のときにオペラ「フィガロの結婚」で大当たりして絶頂期を迎えるが、その後はどういうわけかツキに見放され、友人に借金を懇願する生活へと転落していく。その理由は、収入はそこそこあったけれど妻が温泉通いで散財していたからとも、・・・

BACK

Text:Akie Uehara
Illustration:Joe Ichimura