クラシックの作曲家たち

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

1685 - 1750

教会と宮廷と市民のために働き続けた、 現代人も真っ青の〝ハードワーカー〟。 真面目で実直なお父さんが抱えていた、 今聞いても身につまされる、転職問題とは…!?

 バッハがドイツのアイゼナハで音楽一族の末息子として生まれたのは、1685年。日本では徳川綱吉が将軍になる頃のことだから、まあ、けっこう古い話だ。ベートーヴェンやモーツァルトに比べると資料も少なく、その人物像は、どこかぼんやりとしている。それでも、少ない情報をつなぎ合わせていくと、〝真面目〟〝頑固〟〝働くお父さん〟といったイメージが、少しずつ浮かび上がってくる。
 早くに両親を亡くし兄の家で育ったバッハは、15歳で家を出ている。2年ほど教会の寄宿学校で合唱団員として暮らした後、就職活動を始め、以降は、教会や宮廷の仕事を点々とし、音楽家としてステップアップしていくことになる。その間、22歳のときに最初の結婚をして7人の子を授かり、妻と死別した約1年半後に2度目の結婚をして13人の子を授かった。つまり、子供は全部で20人! 半分は幼くして亡くなってしまったが、バッハは10人の子を持つ、父親だったわけだ。
 子だくさんなお父さんに必要なものといえば、昔も今も、ズバリ、お金! そんなわけで、バッハは家族を養うために、生涯、働きに働いた。著作権もなければレコードもない時代、当時、音楽家の社会的立場は今よりもずっと低く、基本的に、自分が好きなように作曲できるわけでも、大金がガッポガッポと入ってくるわけでもなかったのだ。 
 その頃、ヨーロッパの音楽の主流は、教会で演奏される宗教音楽か、貴族の館や式典などで演奏されるものだった。だから、作曲家のエリートコースといえば、大きな教会か宮廷のお抱え音楽家になり、主に雇い主の要望に応じて音楽活動を行って、それなりの給料をしっかりもらうことだった。
 より良い職場を求めて転職を繰り返していたバッハがようやく落ち着いたのは、38歳でライプツィヒの聖トーマス教会の仕事を得たときのこと。以降、65歳で亡くなるまでその職務をまっとうしたのだけれど、じゃあ、そこがバッハにとって最良の職場だったかというと……実はこれが、全然そうじゃなかった。
 まず、仕事量がハンパなかった。まず、教会の付属学校所属の聖歌隊の活動を取り仕切り、日曜や祝日の礼拝のためにほぼ毎週1曲のペースでカンタータ、葬儀や追悼礼拝があればモテットなどの宗教音楽を作曲し続ける必要があった。市全体の音楽監督的役割も果たしていたため、祝典など特別な行事があればそのための音楽も作り、44歳の頃から市民音楽団体の指導も引き受け世俗的な音楽の作曲も行い、それらの演奏会の準備や練習にも付き合わなければならなかった。その上、学校でラテン語の授業も受け持たなければならず、そこは自費で賃金を支払い、他の人に代講を頼んでいたという。バッハは、現代人も真っ青の、ハードワーカーだったのだ。
 にもかかわらず、肝心の収入は、額面上、前職よりダウンしていた。薪や穀物、ワインなどの生活必需品は別途現物支給され、結婚式や葬儀などの演奏を引き受けることで副収入を得てはいたが、給与に対する不満はバッハの中に常にあった。その上、これまでの上司とも、何か不服があれば堂々とやり合ってきた頑固な性格が災いしてか、市の〝お偉いさん〟との折り合いも非常に悪かった。
 激務で、給料に不満があって、上層部ともめている――そんなとき、人が転職を考えるのは、今も昔も変わらない。かくして45歳になったバッハは再び転職を決意し、出世した旧知の友人に手紙を出して、職を紹介してもらおうと考えた。その手紙には、そもそも自分がライプツィヒに行くことにした理由として、そのほうが経済的に有利に働くと考えたから、息子たちが大学への進学を望んでいたから(二人の息子がライプツィヒ大学に進学した)ことなどが書かれていた。続いて、ライプツィヒは最初約束されていたほどの好待遇ではなかった、物価が高かった、副収入が減ってしまった、市の当局者は音楽に理解を示さないなどなど、働くお父さんの〝嘆き節〟がいろいろ綴られていたという。
 ちなみに、バッハとほぼ同世代を生きたドイツ出身のヘンデルなどは、イギリスに渡り、フリーランスの音楽家としてオラトリオ(宗教的オペラ)で一発当てるなど、派手に稼ぎまくっていた。実際、当時の名声はヘンデルの方が数段上だったのだ。これに比べてバッハは生涯ドイツから出たことはなかったし、常にどこかの組織に所属し、ある意味実直な人生を送った人だった。
 敬虔なプロテスタントだったバッハは、「マタイ受難曲」をはじめとした崇高な宗教音楽や、「G線上のアリア」でも知られる「管弦楽組曲第3番」のような華麗な宮廷音楽など、整った美しい作品をたくさん残した。そのため、作曲家の中でも〝別格〟の存在とされることも少なくない。だけど実際の彼の人生は、激務に追われて働き続ける現代のお父さんと重なる部分も、意外と多かったことだろう。

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Text:Akie Uehara
Illustration:Joe Ichimura